2018年5月16日

誰の世話にもならず、自分のことを全て自分でやり遂げる人は、立派で素晴らしい人ではない。
人々の世話になりながらでも、人々に尽くす人のほうがずっと素晴らしい人だ。
人々にとって、前者は存在しなくても良いが、後者は必要な存在なのだから。

2018年5月15日

物事の真実を知ることはできない。
だが、真実について考えることはできる。

2018年5月14日

いじめられる側にも原因(何らかの欠点)がある、という事は勿論あり得るだろう。
しかし考えて欲しい。果たして、欠点のない人など居るだろうか?
たぶん誰でも、数えきれないほど欠点がある。だから欠点が有ることは、いじめることの理由には決してならない。

2018年5月12日

仕事か趣味かを問わず何であれ、忙殺されてはならない。
忙しいならば、まず、その忙しさは避けられないものか考えるべきだ。
それが本当に必要なことならば、それを如何に効率よく行うか方法を考えて、改善してゆくべきだ。
誰もあなたの時間を作り出してなどくれないのだから。

2018年5月11日

企業活動は社会に包含されている。だから、ある企業の活動が、社会に利益よりも多く不利益をもたらすとき、その企業は社会を弱体化させる。それは結果的に、社会に包含されている企業そのものをも弱体化させることを意味しており、ゆえに、そのような企業は社会において存続不可能であることは自明だろう。

2018年5月10日

生きることは、死に向かう絶望的な旅路だ。 
共に生きる人無くして、どうして人生を乗り切れるだろうか。

2018年5月8日

世の中に悪の栄えた試しはない。なぜか。栄えた悪は、人々から善と呼ばれるからだ。 
善も悪も何れは滅び、その後「正統」ではないものが悪と名付けられる。

2018年5月7日

自由と従属

自分を保護してくれることと引き換えに、従属することを望む人たちが多くいる。 
保護されることと従属することに自分の存在価値を見い出し、それを感じる。従属することに不満を述べながらも、従属によって満足感を得る。 
その人たちには強い自分の意思はない。自らの意思ではなく、保護と従属を拠り所として立っている。

多くの人は保護と従属のない「自由」を望まないのだ。むしろ自由に不安を感じ、その苦痛から逃れるために率先して自らの意思をも捨てる。そうして不安を遠ざけ、孤独を癒やす。現実を見つめ考えることよりも、自分だけの幸せを望む。他者の苦しみを自分のことのように感じることなど、永遠に無いだろう。

多くの人たちは従属したがるが、ごく一部しか居ない「自由を訴える人」たちは多くの場合、誰しもが自由を望んでいると誤解している。 
だからその訴えは届かない。内心では自由になると困ると思っている人が多く居るからだ。

それでも、保護と従属が悪いことで、自由こそが素晴らしいわけではない。それら全てが必要なのだ。ただ、従属する余りに視野が狭まり、ほとんど何も見えなくなってはいけない。自分しか見えないばかりか、自分すらも見失ってしまう。それは本当に最悪で、恐ろしいことなのだから。

2018年5月6日

本を読む為には、文字にされた著者の意図を根気強く読み取り、理解する能力を必要とする。それは会話において、他者の話をよく聞き、適切な反応を示すことと似ている。
落ち着いて本を読むことのできない人は、他者の話を聞くことも苦手だ。
本を読むことは、他者の話をしっかり聞き、理解し、意図を汲み取る為の最も良い訓練方法なのではないだろうか。だから教育において、本を読むことは欠かせない、重要な要素だろうと思う。

2018年5月5日

愛について深く考えるのは、愛を受けられなかった人たちだ。 
なぜなら、今あり、これからも有り続けるだろうと予想できることについて人が考えることは稀だからである。

2018年5月4日

学ぶことと、自分の頭で考えることは異なる。 
どんなに勉強しても、それだけでは自分で考える力が養われるわけではない。 
しかし一般に、両者は混同されている。 

2018年5月3日

一人の子を作るということは、一つの死を生み出すことに等しい。 
だから全ての親は、人の生と死について真剣に考えなければならない。 

2018年5月2日

文明もまだ無い太古の昔、夜の訪れは人間にとって恐怖だったに違いない。
夜になれば目が利かず、獣や蛇に襲われるかもしれない。
何者かの影に怯え警戒しながら、不安な夜の闇を過ごしたのだろう。
やがて闇が去り陽が昇る時、人々はどれほど安堵し喜びを感じた事だろうか。

僕はいま部屋に居て、夜闇の平穏に安堵すら感じている。
暗闇への恐怖も、陽の光への喜びも失った僕らは、今でも同じ人間なのだろうか。

このブログについて

その時々に思い巡らせたことを、その時に考えた範囲内で書き留めています。
他の文との整合性を保つことはあまり考えてないので、いくらか食い違うこともあるかもしれません。
ここに書いた文が論理的で正しいかどうかはさて置いて、読んでくださった方が何らかの思考を巡らせるきっかけになるならば、とても嬉しいです。